何かをやっているときに、創っているときに、それがいったい何なのか?何のためにやっているのか? 考える前に、説明する前に身体が動いている。やった後になって、創り終わった後になって、あぁこれはこんなことだったのかな?と思うことが多々ある。衝動に突き動かされて、勝手にやっている。ある人は僕のことを「おまえは嗅覚で獲物を狙う猛獣だ」と言う。
当たっていると思う。ケモノが獣を狩るとき、たぶん何も考えていない。「腹減った、エサ、欲しい…」多分こんな会話もない。それは限りなく本能に近い行動だ。
「生きる」を創るにあたって、その衝動はまたやってきた。
パッと瞬間何かが僕の中で弾ける。次の瞬間、僕は大鹿の革を床に広げ、革ひもで絵を描き始める。誓って言うけれど、絵なんて描いたこともないし、真剣に見たこともない。中学の美術は5段階で2だった。でも関係ない。熟練の技術?いらない。イメージ?そんなものもっといらない。いろんなものがなければないほど、力が湧きおこってくる。
そうして2時間もすると、革と革ひもの下絵みたいなものが出来上がった。
2011年3月。
僕は家にいた。冷蔵庫の上のビン類がガチャガチャ割れたけど、幸い無事だった。
日本でも、アメリカなんてもっと、普通の人よりは生命の危険の多い人生だったと思う。
有事には慣れているはずだと自分でも思っていた。だがそれから一週間、僕はソファーの上から動けなくなった。
目の前の死の恐怖ではない。おそらくはこの地球のエネルギーに震えてしまったのだと思う。
ある人は僕のことを革作家、と呼ぶ。当の本人はそのつもりは一切ないけれど。
そんな呼び名はどうでもいいが、しかし、この作品に限っては
革でなければならなかった、石でなければならなかった。
僕にとって革は生命そのものだ。
命をいただき、その記憶を辿り、再び共に生きるエネルギーとして存在する。
植物の命はまた静かに力強くその息吹が刻まれているが、動物の命、醜くも美しく躍動している力が必要だった。
僕にとって、石はまた生命の源だ。
地球そのもの、はたまた宇宙の記憶さえも含んでいる火山岩や隕石、木が化石化するまで2億年という歳月がかかること
その辺に落ちている石ころにさえ、僕ら人間の一生なんかでは測れない何かが含まれている。
この二つが合わさった作品のタイトルは 「生きる」 でなければならなかった。
2011年6月に宮城県気仙沼にボランティアに行った。
海から2~3キロ離れた民家に面した畑を20人がかりできれいにした。
横たわる電柱、無数に散らばった瓦、鉄くず、家屋の一部。
海の方を見ると、海に面して走っていたはずの気仙沼線の車両が、20~30メートルはあるであろう道路に打ち上げられていた。後ろを見ると、民家が4~5軒見えた。どうやらあそこまでは達しなかったらしい。ほんの少しの差でこれか…
帰り道、見えた民家の近くを通った。2階部分しかなかった。その2階部分が他の民家の屋根に乗っている。どこまで行ってもそんな風景だった。
少しでもきれいになった、と感じていたことを恥じた。
1000人、いや、3000人が毎日同じ作業をしても期間が見えなかった。
僕の中で何かが弾けた。
衝動が僕を動かすといった。
モチベーションなどではない、使命感なんかではない、答えなど必要としない
ただ、今、この瞬間に行われている、すべての生命の「生きる」を捉えること
叫び、大地を踏みならし、猛ること
真実も、誠実も不誠実も、すべてを含んで存在する事象を「生きる」に込めて
僕はこの作品を創り、創らせてもらったのだ。
この作品は一対になっている。
1つは気場から採ってきた石を1つ1つ砕いて10年以上寝かせた大鹿に貼り付けた。
その石の中には火山岩や鉱物が含まれたもの、木の化石などが含まれている。
ずっと見ていると、何かが浮き出てくる感じがする。別に意図したことではないが。
もうひとつは14種(細かくは18種)の天然石をまた大鹿に貼り付けた。
2つは対峙して展示する。その間に立ってエネルギーを感じてみて欲しい。
title | 生きる |
scale |
左側 H 250 W 1900 D 50 (mm)40kg 右側 H 2300 W 幅 2350 D 30 (mm)25kg |
material | 細石 珪化木 エルク |
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